人的資本経営とは、人材をコストではなく企業価値を生む資本と捉え、経営戦略に必要な人材の育成・配置・活躍を設計する取り組みです。事業変革や人材不足、働き方の多様化が進む大企業では、開示や制度整備にとどまらず、人への投資を現場の実行力と企業価値の向上へ結び付けることが課題です。
このレポートは、2021〜2026年開催の「人的資本経営」に関連する講演をもとに作成されています。掲載講演の関心は、コロナ禍の働き方と人材戦略の見直しから、開示と人事データ活用を経て、事業変革に必要な人材配置とAI(人工知能)活用へ移りました。一貫しているのは、経営戦略と人材戦略を連動させ、現場の行動変容につなげるという問題意識です。近年は特に、人材データを基にスキル、育成、配置、後継者計画を結び付ける議論が増えています。
2026年(AIファーストで「開示」を事業変革の実装力に変える人的資本経営)
2026年の人的資本経営で企業が直面した中心課題は、開示や制度整備を終えた後、事業変革に必要な人材をどう確保・育成・配置し、現場の行動変容までつなげるかでした。AIとグローバル化が前提となるなか、次世代リーダーの発掘・育成、人事データの分断、戦略と現場の乖離が同時に表面化しています。IPA「DX白書」でもDXを担う人材の確保・育成が課題として挙げられており、人事だけで解けない経営課題になりました。前年までのデータ可視化やキャリア自律の議論に対し、2026年は「人材データを持っているが、経営判断や現場実行に使えない」ことが決定的な不足として認識されました。タレントマネジメントも、導入後に現場がアナログ運用へ戻れば、人的資本経営の基盤にはなりません。
そこで取り組みは、制度導入や指標測定から、事業戦略を起点に人材ポートフォリオ、スキル、育成、配置、後継者計画を連結する方向へ移りました。さらにAIは、単なる人事業務の効率化ではなく、人材データからスキルやキャリアを可視化し、スキルギャップに応じた学習や配置をつなぐ経営インフラとして位置付けられています。従来は人事が個別に集計し、管理職の経験則に委ねていた人材把握を、AIによって継続的な分析・提案まで進められる可能性が見え始めました。ただし、堂前宣夫氏が提起したように、競争力の源泉はAIを使うこと自体ではなく、AIで代替・補完できる業務から、人間にしか担えない判断、創造、対話へどう再投資するかにあります。
この転換を象徴するのが、富士通株式会社、(株)リコー、旭化成株式会社です。富士通株式会社は2020年に人事OSを「統制型」から「自律型」へ刷新し、DX企業への変革を支える人事機能・体制・能力の再設計を進めてきました。これは人事制度を変えるだけでなく、従業員の自律を事業変革の実行力に変えようとする試みです。(株)リコーは、ジョブ型人事制度、自律カルチャー、次世代タレント育成を企業理念の実現と接続し、「人的資本経営品質2025(シルバー)」の認定を得ました。旭化成株式会社はエンゲージメントを測定指標で終わらせず、施策を実行して効果をデータ検証する、因果を捉えた意思決定へ踏み込んでいます。この事例群が示すのは、成果を人事KPIだけで語らず、事業に必要な組織能力を高める再現可能な運用へ移すことが重要になった点です。
共通する潮流は、CHROが制度の管理者から、人材・外部人材・AIを含む経営資源の配分を設計する責任者へ変わることです。データ統合、スキル起点の配置、カルチャー形成、現場との対話は代替関係ではなく、相互に機能して初めて戦略実行につながります。2026年はAIファーストの人的資本経営が、開示の充実ではなく「人の価値を最大化する経営」の実装段階へ入った年でした。翌年には、AI活用の有無ではなく、AIとの協働を前提に経営人材をどう選抜・育成し、人への投資が企業価値へ至る因果をどこまで説明できるかが、企業間の差を分けるテーマになるでしょう。
2025年(開示の次に問われた、事業変革を動かす人材配置)
2025年の人的資本経営で企業が直面した中心課題は、開示や制度整備を済ませても、事業変革に必要な人材を育て、配置し、活かすところまで至らないことでした。ビズスタに掲載されている講演では、次代の経営を託せる人材が見えないという後継者育成の危機感、短期の欠員補充に追われる採用、人事データの分散・陳腐化といった問題が重なって現れています。前年まで進んだ人材データの可視化、スキルベース化、エンゲージメント測定だけでは、人材戦略と経営戦略の連動や現場の行動変容を保証できませんでした。人的資本経営は「何を開示するか」から、「事業の転換に誰をどう動かすか」へと課題が移りました。
対策も、一律の研修や全社共通施策を広げる方向から、事業ポートフォリオの変化に合わせて人材ポートフォリオを動的に組み替える方向へ変化しました。その前提となったのが、現場で使える信頼性の高い人事データです。古い情報や部門ごとに散在するデータのままでは、AIによる分析も戦略的な配置も機能しません。また、データだけで人を動かすのではなく、個人の挑戦やキャリア意向を経営の目標と結び付ける対話が重視されました。人事部門には、制度運用者ではなく、投資家対応、企業カルチャー、雇用ブランド、人的投資のROIまでを扱う経営機能としての役割が求められています。
この転換を象徴するのが、本田技研工業株式会社の取り組みです。安田啓一氏は、人的資本経営・開示の3ヵ年計画の下で、事業戦略と人事戦略を連携させ、事業ポートフォリオの変革を踏まえた人材マテリアリティの特定と、動的な人材ポートフォリオの構築を進めています。これは開示指標を整えるだけでなく、変わる事業に必要な人材像を定め、配置と育成を更新し続ける試みです。東京ガス株式会社も、第3の創業という転換期に、「挑戦による成長」と「多様性を力に」を掲げ、一人ひとりが価値を発揮する環境づくりを経営変革に接続しています。さらにデンソーでは、藤澤優氏がピープルアナリティクスに取り組む一方、宇田川元一氏との議論で現場の想いや組織の混沌に向き合う対話の必要性が示されました。この事例が示すのは、データは配置や育成の判断を支えますが、変革を実装するには現場の納得と対話が不可欠だということです。
2025年の潮流は、人的資本を「測定・開示する対象」から「事業変革を実行する能力」へ再定義した点にあります。共通するのは、経営が人材の方向性を明確にし、人事データで判断の精度を高め、現場との対話を通じて個人の挑戦を組織能力に変える循環です。講演概要には施策の数値成果が示されていない事例が多く、成果管理はなお途上ですが、2025年は実行の基盤が整い始めた年と位置付けられます。翌年には、この基盤を使い、AIと人材データを経営戦略に接続し、施策の因果や投資対効果を説明できる人的資本経営へ進むことが焦点になります。
2024年(開示後の人的資本経営、「実践の成果」を問う年)
2024年の人的資本経営で企業が直面した中心課題は、開示した人材指標をいかに事業変革と企業価値向上へ結び付けるかでした。人手不足のなかで、必要なスキルを持つ人材の確保・育成・配置、次世代リーダーの選抜、エンゲージメントとWell-beingの向上を同時に進める必要がありました。経済産業省「人材版伊藤レポート2.0」が示した経営戦略と人材戦略の連動は、2024年には理念ではなく実行課題になりました。ビズスタに掲載されている講演からは、「人材投資をしても定着や業績が変わらない」「施策と事業成果のつながりを説明できない」という悩みが繰り返し見られます。
それまでの対策は、開示項目の整備、研修の提供、エンゲージメントサーベイの実施、タレントマネジメントシステムの導入に偏りがちでした。しかし、データを集めるだけでは配置や育成の意思決定は変わらず、研修機会を設けても本人のキャリア自律や現場の支援がなければ活用されません。サーベイも測定後の介入や管理職の行動変容につながらなければ、一過性の施策になります。2023年までの「何を開示するか」から、2024年は「どの人材課題を、誰が、どの事業成果のために変えるか」へと問いが移りました。
変化を象徴するのは、制度・データ・カルチャーを別々に扱わず、戦略実行の仕組みとして組み直す動きです。日本電気株式会社(NEC)は、経営危機後に再びグローバルで勝ち続ける企業を目指し、2018年から多様な人材のキーポジション登用と人事制度改革を進めました。その結果、エンゲージメントスコアとともに業績・企業価値が向上したとしています。これは人的資本を福利厚生や人事改革に閉じず、「人が主役」のカルチャーを競争力に変えようとした事例です。アステラス製薬株式会社は、世界70カ国以上にまたがる人材の個別最適を課題と捉え、社内公募、評価制度、人事システムを各国共通で統合し、「グローバル適材適所」を目指しました。一方、採用・定着難が深い建設業界の三和建設株式会社は、若手の生活と成長を支える“ひとづくり寮”を設け、社員数を7年間で2倍近くへ増やし、2020年採用以降の新卒社員の入社3年以内離職率ゼロを継続しています。この事例が示すのは、人的資本経営の成果は共通制度の導入自体ではなく、自社の事業・人材構成に固有の離職や配置の問題を解く設計に現れることです。
3社に共通するのは、目指す事業変革から必要な人材像を定め、データや制度を現場の対話・登用・育成へ接続している点です。2024年の潮流は、静的な人員数や研修時間の管理から、スキルを可視化して人材ポートフォリオを機動的に組み替え、施策をPDCAで検証する人的資本経営への転換でした。翌年には、生成AIを含む人材データ活用がこの流れを加速させる一方、成果の因果を検証し、管理職と現場を動かせるかが、実践企業と開示にとどまる企業を分ける論点になります。
2023年(開示義務化が露呈させた「人事データだけでは動かない」課題)
2023年の人的資本経営で企業が直面した中心課題は、人的資本の情報開示を、事業の競争力を高める実行へどう転換するかでした。2023年3月期決算以降、上場企業を中心に開示が義務づけられ、人事にはデータ収集、指標設定、投資家への説明が一挙に求められました。しかし本質的な課題は、少子高齢化や人材流動化の中で、必要な人材を採用するだけでなく、社員の能力を事業変革に結び付け、定着・活躍させることです。「人的資本可視化指針」が経営戦略と人材戦略の関係を示す重要性を掲げたように、開示の整合性と現場の実効性を同時に問われる年になりました。
それまでの人事施策は、研修、評価、健康、D&I、エンゲージメントを個別に整える発想に偏りがちでした。人事データを集めても、経営が必要とする人材像や事業部門の課題とつながらなければ、最適配置や育成の意思決定には使えません。エンゲージメントサーベイも、測定後の介入を誤れば企業価値を損なう可能性があると指摘されました。2022年には人的資本経営の定義や開示準備が主要な論点でしたが、2023年は「何を開示するか」から、「どの事業目標のために、どの人材へ投資し、効果をどう確かめるか」へと問いが移りました。
この変化を象徴するのが、双日株式会社の「データ×対話」です。同社は経営戦略に連動する人材KPIを設け、データに基づく人事推進体制を整え、可視化ツールで全社・組織ごとの進捗を開示しました。その結果、「女性総合職海外・国内出向経験割合」や「男性の育児休暇取得率」の増加が表れ始めています。数値を人事部だけで管理せず、組織との対話を促す装置にした点が重要です。株式会社デンソーは全社員サーベイから、事業発展とエンゲージメント向上にはキャリア自律が重要だと特定し、2022年にキャリアデザイン制度を刷新しました。さらに独自尺度で自律状態を可視化し、状態に応じて施策を変える運用へ進めています。株式会社メルカリも、多様な専門人材とグローバルな組織に対応するため、ノーレイティングを廃止し、成果偏重ではないバリュー評価を強化し、海外と日本の差をなくす評価制度を導入しました。これらは、制度を統一するためではなく、事業に必要な人材が力を発揮できる条件を再設計する取り組みです。
複数の事例から見える潮流は、人的資本を「開示項目」ではなく、経営と現場をつなぐ管理サイクルとして扱い始めたことです。共通するのは、事業戦略から人材KPIを逆算し、データで現状を捉え、対話や制度変更を通じて現場の行動に戻す流れです。一方で、成果の多くは指標改善の兆しや制度導入の段階にあり、企業価値との因果を十分に示せたとは言い切れません。翌年には、単なる可視化から人材ポートフォリオ、スキル、キャリア自律、サクセッションプランへと論点が具体化していきます。2023年は、人的資本経営が人事の報告業務ではなく、経営戦略の実行力を測る仕組みへ変わり始めた分水嶺でした。
2022年(情報開示を契機に、人事を経営へ接続した人的資本経営)
2022年の人的資本経営で企業が直面した中心課題は、人材をコストではなく企業価値を生む資本として扱い直し、経営戦略と人材戦略をどう結び付けるかでした。経済産業省「人材版伊藤レポート2.0」や人的資本可視化指針の公表を背景に、投資家・従業員へ何を示すべきかが急速に問われ始めました。しかし実務では、人事データが部門ごとに散在し、育成・配置・エンゲージメントを事業成果と結び付けて説明できない企業が多かったようです。従来の一括採用、年次を軸にした配置、画一的な研修だけでは、事業変革に必要な専門人材の獲得・育成や、個人の自律的な成長を支えきれなくなっていました。
不足していたのは、開示項目をそろえること自体ではなく、自社がどの事業戦略のために、どんな人材へ投資し、その結果をどう改善するかという一貫したストーリーでした。ビズスタに掲載されている講演からは、2022年が人的資本の「可視化元年」であると同時に、可視化を人事改革の起点へ変える年だったことが読み取れます。人材情報を集計して報告する段階から、スキル、経験、意向、組織状態を把握し、配置、リスキリング、後継者育成、組織文化の改革へ活用する方向に重心が移りました。従業員にも受け身の適応ではなく、キャリア自律やジョブ・クラフティングを通じた主体的な成長が求められ始めています。
その変化を端的に示したのが日本電気株式会社です。現場マネージャーの「エンゲージメント向上のために何を行動すべきか知りたい」という要望を起点に、エンゲージメントの因果関係を分析する仕組みを構築しました。その結果、2021年度のエンゲージメント割合は25%から35%へ向上しました。12万人規模の組織風土変革において、調査結果を人事だけが保有するのでなく、現場の行動を変える材料にした点が重要です。株式会社日立製作所は、事業改革に対応する組織づくりとして、ジョブ型人事制度と後継者候補の発掘・開発を並行して進めました。現在の職務に人を当てはめる管理から、将来の事業を担う人材を見極め、育て、動かす人材戦略へ移行した事例といえます。さらに横河電機株式会社は、社内対話をAI分析し、組織状態の可視化と経営メッセージの熱伝導性を高める活動を進めました。これは文化を抽象的に語るのではなく、対話のデータから変化対応力を高めようとする試みでした。
これらに共通するのは、人的資本の指標を評価・開示のための数字で終わらせず、現場の対話、管理職の行動、人材配置と育成の改善サイクルに接続したことです。2022年の潮流は、制度対応としての人的資本開示から、企業固有の事業課題を解くための人事データ活用への転換でした。翌年には、開示の実務対応が本格化する一方、企業には「何を開示するか」以上に、「開示した課題へどの施策で介入し、成果を説明できるか」が問われるようになります。2022年は、その後の人的資本経営を実装段階へ進めるための基盤づくりの年でした。
2021年(コロナ禍が人事を企業価値の論点へ押し上げた年)
2021年の人的資本経営で企業が直面した中心課題は、コロナ禍で働き方、雇用、報酬をめぐる前提が崩れるなか、人事を事業成長と持続的な企業価値の創出にどう結び付けるかでした。改訂されたコーポレートガバナンス・コードや人的資本情報開示をめぐる国際的な議論も、人を管理対象ではなく投資対象として説明する必要性を高めました。IPA「DX白書2021」でもDXを担う人材の確保・育成が課題として挙げられており、業務を維持するための人員管理だけでは、変化に対応できないという認識が強まった年です。
前年までの働き方改革や研修施策は、制度整備や集合研修の運営を中心に据えがちでした。しかし、リモートワークの拡大によって、同じ研修を一律に提供するだけでは学習機会の格差や現場との断絶を埋められなくなりました。また、人事戦略が経営戦略から独立していては、どの人材に何を学ばせ、どの事業変革につなげるのかを説明できません。伊藤邦雄氏が人事部門の変革を問い、ISO30414を扱う議論で管理職の変化が組織の命運を左右するとされた背景には、人事制度、管理職育成、情報開示を別々の施策として扱う限界がありました。
ビズスタに掲載されている講演から象徴的に読めるのは、制度、学習、ウェルビーイングを経営の接続点として組み替え始めた動きです。カゴメ株式会社は、Withコロナ時代の経営戦略と人材戦略の連動を目指し、「ジョブ型」人事を含む人事制度改革を論点に置きました。多様な価値観を持つ人材を、従来の一律運用ではなく、未来の理想の働き方から捉え直した点が重要です。ロート製薬では人財・WellBeing経営推進本部という体制のもと、持続的企業価値に向けて経営戦略と人材戦略を連動させる方向性が示されました。一方、大同メタル工業の中野健太郎氏らが参加した議論では、企業内研修とHR業務のICT化・DXが焦点となりました。ここでの成果数値は掲載概要に示されていませんが、研修を人事部門内の運営課題にとどめず、人的資本経営の実装課題として扱ったこと自体が転換点でした。
これらに共通するのは、人事の役割が制度を運用する部門から、事業に必要な人材・学習・働く環境を設計する部門へ移り始めたことです。企業価値を高めるために、人材戦略を経営戦略に接続し、自律的な組織を支える管理職とデジタルな学習基盤を整えるという潮流が生まれました。ただし2021年は、成果を競う段階というより、何を人的資本として捉え、どう開示・育成・配置につなげるかを定義する段階でした。翌年には、この構想が情報開示、タレントマネジメント、リスキリング、エンゲージメントへと具体化し、人的資本経営は理念から実装の問いへ移っていきます。
全体を通じて、掲載講演では人的資本を開示項目や人事制度として扱う段階から、事業変革を実行する組織能力として扱う段階へ移った構図です。データによる判断と、管理職・現場との対話を通じた実装を両立させることが共通論点となっています。
※登壇者の氏名・所属・役職は講演開催当時の情報です。現在の所属・役職とは異なる場合があります。
※本レポートは、ビズスタに掲載された「人的資本経営の成功事例」をテーマにした講演情報を元に傾向を分析しています。
※市場環境の参照:IPA「DX白書」、経済産業省「人材版伊藤レポート2.0」
編集者:ビズスタ市場調査チーム